2002年1月1日(火)新しい年が明けた。
未来への不安。
異国で暮らすことからくる焦り。
思い通りにならない現実への不満……。
そうした気持ちは、年が変わったからといって、簡単に消えてくれるものではない。
それでも、毎年やって来る1月1日という日は、不思議と新しい気持ちにさせてくれる。
まして今は、日本という異国の地で迎える新年だ。
これから始まる一年間に、どんなことが待っているのだろう。
さまざまな困難にぶつかったとき、どうすれば乗り越えていけるのか。
焦らず、落ち着いて、自分自身と向き合いながら考えてみる。
2002年は、ワールドカップをはじめ、世の中にも大きな変化が起こる年になるだろう。
そんな変化の中で、自分自身の位置を見失わないこと。
そして、この日本で過ごす一年間が、これからの人生にとって大きな力になるように、今の自分をしっかり鍛え、成長させていかなければならない。
今年の心得。
「去る者は必ず帰り、会う者はいつか必ず別れる」
人生とは、出会いと別れの繰り返しなのかもしれない。
だからこそ、今この場所で過ごしている時間を大切にしたい。
2001年8月1日(水)日本に戻ってきた日と部屋探し
実に10年近くぶりに、日本の土を踏んだ。
期待と不安、そして言葉では言い表せないほどの緊張を抱えながら日本に到着した。
しかし、私を待っていたのは、思っていた以上に厳しい現実だった。
空港に到着すると、先輩の○○○さんが迎えに来てくれていた。
久しぶりに顔を合わせ、ほっとしながら挨拶を交わした。
そして、そのまま○○○先輩と一緒に西川口へ向かった。
ところが……。
西川口に到着し、紹介されていた宿泊先に入った瞬間、私は言葉を失った。
「ここで暮らすのか……?」
そう思ってしまうほど、想像していた生活環境とは大きく違っていた。
エアコンも冷蔵庫も洗濯機もない。
トイレも、現在の日本の住宅ではあまり見かけない昔ながらのタイプだった。
さらに、畳の部屋には十分な窓もなく、隣の部屋に挟まれるような形で生活することになっていた。
正直なところ、かなり厳しい環境だった。
先に日本へ留学していた先輩たちが、住居探しでどれほど苦労したのか。
その苦労が、少しだけ分かったような気がした。
実は日本へ来る前、私は「知り合いを通した物件探しはしない」と心に決めていた。
ところが、大学時代の同級生で、日本で留学エージェントを運営していた○○○さんを信頼し、
「多少高くてもいいから、できるだけ快適な場所を用意してほしい」
とお願いしていた。
それだけに、実際に紹介された部屋を見たときのショックは大きかった。
今思えば、韓国と日本では住宅事情や「住みやすさ」に対する感覚にも違いがある。
その違いが、このような結果につながったのかもしれない。
とはいえ、当時の私にとっては、とにかく厳しいスタートだった。
結局、その日は先輩の家にお世話になり、翌日の8月2日から本格的に部屋探しを始めることになった。
2001年8月2日 外国人というだけで断られる部屋探しの現実
西川口周辺の不動産会社を、文字どおり片っ端から訪ね歩いた。
しかし、そこで待っていたのは、また別の壁だった。
私が外国人だと分かると、
「外国人はちょっと……」
という反応をされることが何度もあった。
もちろん、外国人だからという理由だけで入居を断られることが当時の日本では珍しくなかったことは、後になって知った。
家主にもそれぞれ事情があるのだろう。
ただ、当時の私はまだ日本で暮らし始めたばかりだった。
物件がないのであれば、「ありません」と言ってくれればいい。
それだけでも十分だった。
ところが、外国人だと分かった瞬間に、こちらの話を詳しく聞こうともせず、どこか距離を置いたような態度を取られることがあった。
そのとき私は、日本社会の中で外国人として生活することが決して簡単ではないという現実を、初めて肌で感じた。
しかも、その日は真夏。
暑さと湿気がひどく、ただ立っているだけでも汗が流れてくるような天気だった。
そんな中を歩き回り、何軒もの不動産会社を訪ねては断られる。
精神的にもかなりこたえた。
何より、いろいろと世話をしてくれていた○○○先輩に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「自分一人でも何とかしなければ……」
そんな思いが強くなっていった。
高田馬場で見つけた小さな希望
午後になると、私たちは西川口を離れ、早稲田大学に近い高田馬場駅周辺へ向かった。
こちらでも最初の数軒では、
「外国人は難しいですね」
という返事が続いた。
それでも、西川口周辺よりは少し親切に話を聞いてくれる不動産会社もあり、それだけで少し気持ちが楽になった。
そして、ある不動産会社「ミニミニ」の女性スタッフが、とても親切に対応してくれた。
こちらの希望条件を一つ一つ聞きながら、条件に合いそうな部屋をいくつも紹介してくれた。
その中から気になる物件が見つかり、実際に部屋まで見に行った。
「これでようやく決まるかもしれない」
そんな期待を抱いた。
ところが、最後のところでまた問題が出てきた。
日本で部屋を契約するには、日本人の保証人が必要だったのだ。
その条件をめぐって、しばらく話し合いが続いた。
しかし、結局その日に契約を結ぶことはできなかった。
またしても振り出しに戻った。
疲れ果てた私たちは、部屋探しをいったん諦めて帰ることにした。
その帰り道、○○○先輩が探してくれていた寮の「韓国会館」に立ち寄った。
そして、そこで暮らすことを決めた。
こうして、日本に到着してからの数日間にわたる、私の「住居探し騒動」はひとまず終わった。
ようやく落ち着ける場所が見つかった2001年8月3日8月2日に入居した「韓国会館」。
私はここに、3か月間、合計23万円という条件で滞在することになった。
正直なところ、最初は「ここで大丈夫かな」と思っていた。
しかし、実際に暮らしてみると、個人的には十分満足できる環境だった。
当時、日本の一般的な賃貸住宅を借りるとなると、部屋だけが用意されていて、テレビや冷蔵庫、洗濯機などの生活用品を自分で揃えなければならないケースも多かった。
日本に来たばかりの留学生にとって、それはかなり大きな負担だった。
もし最初から一般のアパートに入居していたら、生活用品を一から揃えるだけでも大変だっただろう。
その点、韓国会館には必要なものがある程度そろっていた。
個室にはテレビ、冷蔵庫、エアコンが設置されている。
トイレ、洗面所、シャワーは共同だった。
韓国の新聞も読むことができ、韓国のテレビ放送も見ることができた。
さらにインターネットも利用でき、当時は1,000円で一日中自由に使えるという環境だった。
今では当たり前のように思えるインターネットも、2001年当時の留学生生活では、かなりありがたい設備だった。
ただ一つの問題は「交通」
そんな韓国会館にも、一つだけ大きな問題があった。
交通の便があまり良くなかったことだ。
最寄り駅まで、私の早歩きでも約20分。
それだけなら、まあ我慢できる。
しかし、早稲田大学へ通うとなると、高田馬場駅で降りてからさらに15分ほど歩かなければならない。
つまり、毎日の通学だけでもかなり歩くことになる。
「学校が始まったら、一日にどれくらい歩くことになるんだろう……」
そんな心配が少しずつ大きくなっていった。
もちろん、私は日本に来て、楽な生活を送ろうと思っていたわけではない。
留学というものが、何もかも思い通りにいくものではないことも分かっていた。
それでも、実際に生活を始めてみると、想像していた以上に大変なことが次々と出てきた。
住む場所を探すこと。
外国人として部屋を借りること。
言葉の壁。
慣れない生活。
そして、毎日の通学。
振り返ってみれば、日本留学の本当のスタートは、大学の門をくぐった日ではなかったのかもしれない。
空港に降り立った、その瞬間から始まっていた。
期待と不安を抱えながら、日本という新しい場所で、自分の居場所を一つずつ探していく。
それが、私の留学生活の最初の一歩だった。
そして、この先にどんな出来事が待っているのか。
そのときの私は、まだ何も知らなかった。
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